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豊島教会新聞 2020年1月号 主任司祭 巻頭言

                 『 神の母聖マリア 』

                            主任司祭  アシジのフランシスコ 田中隆弘

 

  京都太秦に京都最古の寺広隆寺がありますが、その寺にある国宝指定第一号になっている木造・宝冠弥勒菩薩像が安置

 されています。 はじめて観たのはいつか忘れましたが、その後何度か観に行ってます。行くたびに感動し、しばらく見入ってしまう

 仏像です。3つ星のそのために旅行する価値のある仏像というところでしょうか。

 

  同じように見入ってしまったのはフィレンツェでフラ・アンジェリコの「受胎告知」をサンマルコ修道院で観た時でした。修道士たちが

 自室にもどる時にその「受胎告知」を観て、また絵の下にはラテン語で「この前を通って汚れなき聖処女の御姿を仰ぐ時に、アベ

 マリアを唱えることを忘れぬように」と書かれてあるとおりに「アベマリア」を唱えそのとりつぎを願ったことを想うと、さらに感動的です。

 日本にあれば何度でも観にいくのですが…。

 

  さて、その「受胎告知」の聖母マリアはガブリエル(神の人)と出会った時、わたしならば、その「見た」ことだけで心を奪われてしま

 い何を言っているか、ちゃんと聴いていないのではないか?と思うのですが、マリアさまはその神の人の言葉を「聴き」「信じ」「従い

 守る」訳です。 ルカ福音にあるように「幸いなのは神の言葉を聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11・28) とあるとおり信仰は

 「見る」よりも「聴く」ことからはじまるということなのかもしれません。「わたしの羊はわたしの「声」を聞き分ける。」(ヨハネ10・27)と

 あります。

 

  イエス・キリストが十字架で息を引き取られたのを見て、外観は「十字架につけられた惨めな人」としか見えない場面で、百人隊

 長は十字架の上でのイエス・キリストの言葉を聴き「息を引き取ったのを見て 「本当に、この人は神の子だった」と言った」とあるよう

 にです。

 

  マリアさまは「すべて心に納めて、思い巡らした」とあります。それは「神の言葉」のことではないでしょうか? この「心を納める」とい

 う単語はヘロデイアから洗礼者ヨハネを「保護した」と同じ単語です。つまり、マリアさまは神の言葉を危険から守って温めた、という

 ことになるのです。

 

  わたしたちも、新年、年の始めにあたり、聖母マリアにならい神の言葉を大切にし 「聴き・信じ・守る」 ことができますように、

 とりつぎを願って 「アベマリア」 を唱える者となりましょう。