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豊島教会新聞 2021年5月号 主任司祭 巻頭言

 

 『 同じ聖霊に満たされて 』        

 

                        主任司祭 アシジの聖フランシスコ  田中隆弘

 

以前、5月の連休の時でしたが、新宿に買い物に行きました。高島屋のエレベーターに乗ると下の階から先に乗っていた人たちのうちの2人がわたしの背後で話しをしているのが聞こえ、相手の人に、「次の買い物に呉服をみたいのだけれども、ここにはあるだろうか?」  とたずねていました。 相手は 「はいあります。」 と短く応えました。

 

 高島屋は三越と並ぶ百貨店の老舗で、前身は 「高島屋呉服店」 の関西系の百貨店です。そのデパートに 「呉服はあるだろうか?」 はないだろうと思っていると、その2人が目的の階についたので降りる時、ていねいな関西弁で声をかけて出ようとした時、エレベーターの残った人たちが一斉に気づいたのです。 「中村玉緒さん」 だと…。

 

 ところで、「エレベーターのなかでの会話」 は普通まず口をつぐむ傾向にあります。それは、第三者が加わると、そのエレベーターのなかが 「私的空間」ではなく 「公共の場」 にかわるからです。ですから、私的な性質のものを第三者に聞かせることをためらう、不快の念を抱かせることをためらい沈黙するか最小限度の会話にとどめることになります。

 

 「ガラテヤの教会への手紙」 のなかで、聖パウロは聖霊の働きの反するものとして 「利己心」 をあげていますが、この「利己心」 が 「公共の場」 を 「私的空間」 に身勝手に変えてしまうのです。それは、宗教的に考えれば 「わたしたちの世界」 を 「わたしの世界」 にしてしまう、「父なる神の家」 を 「自分の家」 にしてしまう行為と言ってもよいのではないでしょうか。

 

 「使徒言行録」 のなかで、「自分の故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを」 「驚き、怪しんだ」 とあります。ヘブライ人はヘブライ語こそが天上の神の言葉と当時まじめに考えていたようで、その他の言語を二流、三流と判断していたという当時の記述が残っています。そこにも 「神の世界」 を私物化、独占しようとする 「利己的宗教心」 をみることができるかもしれません。

 

 「聖霊降臨」 弟子たちはマリアさまが聖霊にみたされたのと同様に、同じ聖霊にみたされます。聖霊にみたされて、「共に」 「神の国に」 あることがわかる者、観える者となりました。そして、それはわたしたちもみな同じことなのではないでしょうか。