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豊島教会新聞 2022年1月号 主任司祭 巻頭言

 

『 キリスト教一致祈禱週間 (1月18日~25日) 』        

 

                           主任司祭 アシジの聖フランシスコ  田中隆弘

 

 『兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを

 言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、

実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。…

キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためです。』 (第一コリント1・10-11・17)

 

 パウロのコリントの教会への手紙、そこには初代のコリントの教会の混乱つまり分派争いに際してのパウロの助言が示されています。初代の教会ですから、たぶん成人洗礼が多く自分たちみずからの意志で洗礼を受けたという気持ちや、あるいは又わたしは弟子の誰々から洗礼を授かったという思いが強く、それが分派争い、内部分裂に発展したのかもしれません。

 

 ところでわたしが心ひかれたのは、この手紙の一節で 「キリストがわたしを遣わされたのは洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため」 というパウロの言葉です。わたしが司祭になる前、神学生最後の年の問答を思い出させてくれたからです。何の発端からは忘れましたが 「宣教」 の事が話題となり、その授業の先生イエズス会の神父さんでしたが、その先生が 『宣教において、司祭の最大の仕事は洗礼を授けることではない。』 というようなことを言われました。すると、いつもは静かな長崎出身の神学生でしたが、その人がすぐ手をあげ発言したのです。「もし、そうなら、それでは信者が増えなくなってしまうのではないですか?」 と問うたわけです。 

 その時、それに先生はニコニコしながら、「それはあなたの心配することではなく、神さま自ら考えてくれます。(又心配してくれます。)」 と言ったわけです。「なぜなら、あなたの信者ではなく、神の信者なのですから…。」と、

 

 わたしはその時、なるほどと思ったわけですが、それでは何が司祭にとって、あるいは宣教師にとって一番大切かと言えば先ほどの聖パウロの言葉に帰るのです。イエズス・キリストは宣教の開始に語ります。「悔い改めて福音を信じなさい。神の国は近づいた。」と、つまり、どこの教会で、いつ、誰から洗礼を受けたかなどはあまり問題ではないのです。福音を伝えられたか、そしてその 「神の国」 にいま生きているかが重大なのです。