豊島教会新聞 2023年10・11月号 主任司祭 巻頭言
『 復活の命 』
主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇
みなさんはローマにあるカタコンベのことをご存知でしょうか?アッピア街道沿いだけではなく、ローマ市内の古い聖堂などにも付属していて、旧市街地区を除いてローマにはなんと63ヶ所も
あると言われています。カタコンベという言葉の本来の意味は、単に 「下の墓」 すなわち 「地下墓地」 です。実はこの地下墓地にはキリスト教だけでなく、ユダヤ教や異教徒のものもあり、場合によってお互いが隣接しています。しかしその呼び名にはちょっとした違いがあります。異教徒のカタコンベは、一般にギリシア語で 「ネクロポリス」(死者の町)と呼ばれるのに対して、キリスト教のそれは 「コイメテリオン」 と呼ばれるのが普通です。その言葉は様々な現代語にも形をとどめており、英語のcemeteryやイタリア語のcimiteroがそれにあたります。その意味は「眠っている者の場所」 です。これはまさに聖パウロが使っている表現 「キリストにおいて眠りについた者・・・」(1コリ15:18)なのです。つまりキリスト者の命は、死んでおしまいというのではなく、この世から去って今は何かを待っているかのように眠り、憩うている。それゆえその人々は、いつかはそこから立ち上がっていくという含意があるのです。だからこそ、キリスト者は初期から迫害を避けるためではなく、自分より先に亡くなった人の葬られた場所を訪れ、そこで記念の儀式や会食を行ったりするためにカタコンベを作りました。その証拠に当時カタコンベの存在は秘密の場所ではなかったと言われています。
復活の信仰を生きる私たちは、死んで新しい命に復活した最初の人・キリスト・イエス
の命の神秘に結ばれたいと望んでいます。また私たちに先だった人々を復活の主に委ね
たいという信仰の希望を新たにしています。主イエスは真の意味で真の人間として、一度
この世の命に死に、永遠の命へと復活しました。
イエスだけでなく 「主に属する人」(ロマ14:8参照)もみな、彼と同じように ― 苦しみを乗り越えて ― 自然の死には定められていますが、その死はもはや終止符ではなく永遠の命への希望の扉であるのです。なぜなら、キリストと共にある者は、あたかも眠りから覚めるかのように真の命へと復活していくからです。面白いことに、ヨハネ福音書ではイエスが墓から甦らせるラザロについてイエスは 「彼は眠っている」(ヨハ11:11)と言っています。そのように、やがてイエス自身の死も最終的な滅びや敗北ではないのだと予言しているかのように読めるのです。
教会は二千年の間、主が再び来られるまでその死を恥じることなく、死と復活のどちらも宣言してきました(1コリ11:26参照)。キリスト教は、キリストが死に打ち勝ったことに希望を置くものだからです。キリストにおいて、死につながる究極的な不安・絶望・苦悶の中でこそ、信仰者にとって終わることのない新しい永遠の命が生まれることが可能になりました。しかし、この 「復活」 はただ死後のことではなく、罪に死に愛を生きることによって既にこの世でも始められねばならないものなのです。ヨハネの第1手紙3章14節に次のように書かれています。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」 と。この復活という根本的な出来事への望みを抱いていない、また自分の生活の礎に復活の主の愛を据えていないなら、私たちは世の中のどの人よりも惨めなのです(1コリ15:19参照)。この私たちが真に信仰を生きる現実こそが死後に及ぶ恵み、あるいは裁きとなるのでしょう。復活の命は、単に過去の出来事ではなく、また遠い未来の出来事でもなく、既に信仰生活の内に実現されつつあることであり、そのため聖パウロは 「キリストとともに死んだあなたがたはキリストと共に復活して生きる」 と言えたのだと思います。私たちも、復活の命の希望に生かされた、いうなればこの世にあって天の国の先取りとなれるよう互いに祈り働こうではありませんか。