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豊島教会新聞 2021年6月号 主任司祭 巻頭言

 

『 真の知恵 』        

 

                           主任司祭 アシジの聖フランシスコ  田中隆弘

 

  前に新聞の本の紹介のコーナーの記事の中で、芥川賞を受賞した小説家の平野啓一郎さんと  いう方が、自分の愛読書として、『ソクラテスの弁明』 という本を紹介していました。プラトンの有名な本です。師であるソクラテス。弟子であるプラトンが、先生であるソクラテスが亡くなっていった、そのことを書いている『ソクラテスの弁明』。キリスト以前、400年以上も前の哲学者。真の知恵とは、すなわち無知の知(不知の自覚)を自覚し、そのことを自覚したうえで探究することで得ることができる。そう思っていたソクラテス。そのソクラテスの道徳哲学(倫理学)をアテナイの市民たちは受け入れられず、そして告発されて死刑に処せられていく。あの名著 『ソクラテスの弁明』 です。私も何度か読み返した本のうちのひとつです。 

 それを平野さんは、実は 『新約聖書』 も同じではないかと言います。弟子であるプラトンが、なぜソクラテスが死ななければならなかったのか。死刑にならざるをえなかったのか。それを書いたのが 『ソクラテスの弁明』 である。それと同じように、イエス・キリストがなぜ十字架刑にかからなければならなかったのか。師であるイエスがどうしてそのように死を迎えなければならなかったのか。弟子であるひとたちが、そのことを弁明したのが、書いたのが 『新約聖書』 ではないかと、その紹介の記事には書かれていました。私はあまり考えたことがなかったので、そのような見方もあるのかと思いながら感心してその記事を読みました。

 人としての限界、それを哲学の世界でソクラテスは無知の知という形で追究しようとして、当時のアテナイの市民に排斥され、死刑になっていきます。イエス・キリストも、ある意味では、宗教の世界で、律法学者たちが行いによって神様の義を得る事ことができる、そう信じていたひとびとに斥けられていきます。イエスは 「先生と呼ばれてはいけない」 と言います。ひとにはひとの限界がある。ソクラテスは哲学の世界で、イエス・キリストは宗教の世界で、ひとの限界を語ったと言っていいのかもしれません。自分がよい先生になれる。自分の力でなることができる。自力の世界を信じているかぎり、他力の世界の神様の愛、それを受け取ることはできないのかもしれません。