豊島教会新聞 2022年11月号 主任司祭 巻頭言
『 イスラエルよ、聞け 』
主任司祭 アシジの聖フランシスコ 田中隆弘
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。
「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』 この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12・28‐31)
神学生時代、イエズス会の秋川神瞑窟(座禅堂)で座禅をし、神学校にある禅室で禅を試みた時がありました。その座禅から学んだものは多くありました。しかし座禅座布はいまでも持っているのですが、身に付くことは残念ながらありませんでした。
初めて座禅をする時、いろいろな方法でするのですが、一つの方法は呼吸をしながら「一」「二」…と「十」まで数えてまた 「一」 にもどるというやり方がありました。これは、やる前は簡単だと思ったのですが、いざやってみると大変でした。「一」 「二」 といくのですが、かならず途中で何か余計なことを考えはじめてしまうのです。滅多に「十」 までいかないのですが、いったとしても 「今度はうまくいったぞ!」 などと考えてしまうのです。つまり、自分の心の中の声にさえ、人はなかなか集中できない、空にして無にして耳をかたむけることができないのです。
人はなかなか心の中を空にすること、無にすることができないようで、そうであるならば、なおさら人が何か話している時も滅多に心を空にして聴いていることはありません。いつも何か違うことを、あるいはこの人がしゃべり終えたら 今度はわたしがこんなことを言ってやろうなどと考えているわけです。
旧約以来 聖書は 「聴け!」 と言います。「信仰は聴くところからはじまる」 とローマ人の手紙の中でパウロは語りますが、まさにそうです。深い沈黙の世界のなかで、神が人間に語る神の言葉を心を開いて聴くということによってすべては始まるのです。(ロマ書10・13‐21)
回心は自分中心の立場から神さま中心に心を改めるということなのですが、そのためにはまず、自分の心を開くという 「開心」 が必要なわけで、そして 「聴く」 ということからはじまるということではないでしょうか。
聖母マリアのとりつぎを願いましょう。