豊島教会新聞 2017年3月号 主任司祭 巻頭言
『 それより、早く顔を洗いなされ 』
主任司祭 アシジの聖フランシスコ 田中 隆弘
江戸時代の偉大な禅僧で書家として、また歌人としても有名な良寛さんのお話のなかで、ある日、旅人が良寛さんのところを訪ねてきた時のものがあります。旅人が訪ねると、「よく来なさった・さあ足を洗いなさい。」と良寛さんは旅人に水を用意しました。旅人は夕食をふるまわれ、一晩良寛さんの庵に泊めてもらいます。
翌朝、旅人が目を覚ました時、良寛さんはすぐに起きてきて旅人に顔を洗うようにと、洗面の水が用意されておりました。それを旅人はじっと見ています。そこに良寛さんが来て、「さあさ、早く顔を洗いなされ」と言います。旅人は質問しました。「良寛さん、ここにあるのは鍋ではありませんか?」「ああそうだよ」「では、この鍋は昨夜のおかゆを炊かれた鍋ですね?」「ああ、そうだよ」「じゃあ、この鍋は、わたしが最初に来たとき、足を洗わせていただいた鍋で…?」「ああ、そうだよ。それより早く顔を洗いなされ。その鍋で朝のおかゆをつくらなければならないのだから…」 というものがあります。
良寛さんだから「凄い」となるのかもしれませんが、「なんて汚いお坊さんだろう!」と思う気持ちもわたしたちにはあります。つまり、鍋は鍋であって、きれいに洗えば鍋は鍋なのですが、「拘(こだわ)る心」に囚われるともう「汚い鍋」になってしまうのでしょう。
自分の、自分たちの色メガネで観て、決めつけ拘ることによって囚われてしまっていることがわたしたちにあるのではないでしょうか?四旬節にあたり、共々に反省してみたいものだと想います。