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豊島教会新聞 2018年9月号 主任司祭 巻頭言

           『 ちょっと流氷を観に… 』                       

                                      

                     主任司祭 アシジの聖フランシスコ 田中 隆弘

 

  神父になって、はじめて赴任した町田教会の主任神父さんは旅行が大好きで、「ちょっと北海道に流氷を観に行ってくるネ

 と言って、2週間の流氷観光に行く方でした。日曜日に主日ミサをした後、月曜日に出発してつぎの日曜日の主日のミサをわた

 しにまかせてそのつぎの土曜日にはもどり、そのつぎの日曜日の主日ミサは自分ですべてする、というものでした。

 実に見事な計画でした。

 

  しかし、ある年にそれがたびたびあったので、つぎの年のはじめに去年の1年間のスケジュール表を計算してみると、なんと合計

 3カ月も旅行等で留守をしていました。 わたしは、はじめての神父としてのことだったので、主任神父さんというのは、そういうもの

 なのかと思っていたのですが、だんだんまわりの神父方の様子が観えてきた時、それは特別なことなのだと気がついた訳です。

 

  わたしは、仲間の助任神父さんに「うちの主任は調子がいいんだから…」と言って同情してもらおうとしたのですが、その助任

 神父さんは「それはいいなあ!」と意外な答えでした。つまり、それはそれだけ「あなたは信頼されている」ということなのだ、というこ

 とでした。たしかにその間、教会を託され、「後はすべてまかしたよ」と言って出かけるということは、そいうことだなと思ったのです。

 

  イエズス・キリストは福音書のなかで、自分の財産を託して、旅行に出かける主人に、天の父をたとえています。それは「託した

 人にその財産の処理を委ねたうえで留守をする」 とはそれを監視されることなく、全く自由に運用できるということであり、信頼し

 切っている姿を示しているということだと思います。

 

 わたしたちは、それを負担と思うのではなく、信頼されていることに感謝し、認められていることを喜び、信頼に応え、神から、それ

 ぞれいただいたタレント、才能を使ってすべての人のため御国のために働くようにしたいと思います。

 

 また、このたとえ話のなかの「託した」という単語は「引き渡す」とも訳されて、「人の子は十字架につけられるために引き渡される。」

 という時にも使われていますが、考えてみれば、わたしたちは「イエス・キリスト」という財産を父なる神さまから託されている

 ということも考えることができると思います。わたしたちがどうするかによって、それは生かされもし、土の中に埋もれることも、あるいは

 十字架に、ということになるのかもしれません。